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#9 "ヒマ"と"多忙"どっちが幸せ?って話

 

 

1月末から2月初旬にかけての2週間のあいだの、ある種の地獄のような試験期間から解放され、晴れて春休みを迎えた大学生がこの記事を書いています。

 

 

 

「なんだよ、冒頭から"私忙しいんです"自慢かよ」と思われた方、申し訳ありません。こうして得体も知れない誰かに、日々の不満を聞いてもらう・見てもらうことでしか、日々の心の均衡を保てないタイプの人間です。

 

 

試験期間、めちゃくちゃ痩せるんですよ。これ、僕と同じ薬学生あるあるであってほしいと心から思うのですが、あさ9時に「よっこいしょ」なんて言いながら机に向かって試験勉強を始めて、ひと段落ついて時計をみると、よるの10時をまわっていた、なんてことも珍しくない。

 

 

あんなに何もすることがなかった数か月前までの時間の流れとは、あまりにも体感速度の乖離が激しすぎると今回の試験期間で気づきました。

 

 

その話題でいうと

 

先日、某人気青年漫画NHK総合でドラマ化されていることを知り、その番組の公式Twitterを調べてみたときに、以下のような“問い”が提示され、視聴者の回答を募っていました。

 

"ヒマ"と"多忙"どっちが幸せですか

 

皆さんは、この問いについてどう考えますか?

 

 

僕はこの問いに対したとき、まず、この問いにおける“幸せ”の定義が曖昧であることに引っ掛かりました。なにをもって幸せとするのか、おそらく人によって違いがあるはずです。この質問の意図としては、自分の中にある“幸せ”の定義と照らし合わせたときに、ヒマな状況と多忙な状況のどっちがよくその定義に合致する?ということなのでしょう。

 

 

それだけに、この質問に対する視聴者の回答を集めた掲示板は、十人十色の“幸せ”がみられて、とても興味深いものでした。

 

 

 

「ヒマな方が幸せ」

私は仕事が多忙な時、それ以外のやる気がまったく出なくなってしまいました。以前は趣味を楽しんでいた休日もただ寝ているだけで終わり、罪悪感が残るように。LINEのやり取りさえも億劫で、人とのつながりも希薄になってしまいました。私にとっては、そこまでして稼いだお金より、失ったモノの方が大きかったです。

メガネのいっこー さん(20代・岐阜県・女性)

 

「今のところはヒマです。」

多忙の方が得られる幸福は多いかもしれませんが、その分同じだけ、ないし幸福を上回る苦悩や葛藤、後悔があります。それら苦しいことも含めて幸福と言えるまで成長できれば、ヒマより多忙の方が幸福になるのかもしれません。ですがまだ未熟な私は多忙であればあるほど、上手くいかなかったマイナスな気持ちが心に残るので、どちらかと言えばヒマな方が幸福だと感じます。

キルケゴール推し さん(10代後半・東京都・女性)

 

「どうして"そう"なっているかによる」

ヒマと多忙、どちらが幸せか。

私にとって、どちらの状況だろうと、そこに至った理由が重要だと思います。

自分が見込んでたよりもスムーズに物事が進められて、日がな一日なんにもすることがなくってヒマだなーってなったら幸せだし。

職場で周りは仕事に追われているのに、自分はやることがなくて、他のことを任されるわけでもなかったら、自分には価値がないんだなって、落ち込んでしまうし。

多忙であってもまた然りで、充実した多忙なら幸せだし、色々押し付けられての多忙なら嫌だし。なんと言うか、自分自身を大切にできるヒマや多忙か、自分を蔑ろにしているぞんざいに扱っているヒマや多忙か、ってところが、幸せか否かの違いかな、と。

ひお さん(20代・新潟県・女性)


「日がな一日」

・・・一日中。終日。ひねもす。







僕の考えとしては、「多忙のあとにある ひとときのヒマがいちばん幸せ」だろうと体感的に感じます。「暇な時間」は某漫才師のツカみのように「ナンボあってもいい」ものという訳ではないのかなと思っています。

 



 

多忙な状況にあるときは、喉から手が出るほど、なにもする必要のない休日を求めるうえに、Twitterとかでいかにも暇そうに一日中どうでもいいことをツイートしている人を見ると、「コイツどうやって生きてるんだ?」というような卑屈な思考が巡ってしまいます。

 

 


それなのに、いざヒマな時間が長く続くと、「皆頑張ってるのに俺は何しているんだ...」とネガティブな気持ちになり、やっぱり多忙なほうがマシというマインドになります。Twitter上でいかにも忙しそうにアピールしている人を見ると、「この人休む暇もなくて可哀想...」というような、これまた卑屈な思考になってしまいます。

 

 

 

だからこそ、“ひとときの”ヒマがいいのです。

 

 


 

 

そして、現在、そのひとときのヒマを誰とも共有するわけでもなく、独りで楽しんでいるところです。