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#10 日本の英語教育の落とし穴?

 

 

 

外国語を和訳したときに使われる日本語が、嫌いだ。

 

 

それは、Googleの翻訳機能によって自動入力されるような、いかにも不格好な和訳文というよりはむしろ、確かに人間によって翻訳された文のほうを言及している。

 

 

 

中学校の英語の教科書の、英文のしたに添えられているような、「あの」日本語の文だ。読んでいて、とても気持ち悪い。(もちろん全部が全部、という訳ではない。)けれど、自分に英語力も読解力もないから、その和訳文に頼らざるをえない。

 

 

 

先日も、米国のあるジャーナリストのビジネス・自己啓発に関する著書の和訳書をほぼ衝動的に購入したが、せっかくの興味深い内容にもかかわらず、和訳された文章が兎に角違和感だらけで、内容のインプットに引っ掛かるところがあって、うんざりした。

 

 

 

高校1年生のときから、なんとなくこの感情に直面しているが、「日本語の表現としても違和感のない」英文和訳のスキルを、高校英語は僕に教えちゃくれなかった。

 

 

 

例えば「people」という英単語をあなたはどう和訳するか?

 

 

 

おそらく多くの人は中学や高校で学んできたことから、経験的に「人々」と訳すのだろう。

 

しかし、あなたの一日の生活の中で、「人々」という言葉を口にする・耳にする機会はいったい何回あるだろう?

 

 

 

そういうレベルの話をしている。

 

 

 

She always makes me happy. 

 

という英文を、教科書に書いてあるような日本語にしか翻訳できない頭の硬い人は、「彼女はいつも私を幸せにさせます。」という訳し方をしてしまうのだろう。

 

 

 

もっとも、大学受験で英語の筆記試験を受けるような高校生なら、この手のレベルの英文であれば、「彼女がいると私はいつも幸せな気持ちになる。」くらいには訳せるだろう。

 

 

しかし、少し英文が複雑になると、一つ一つの単語を追うのに必死で、つい「頭の硬い訳し方」になってしまう。

 

 

 

前述の 私が手にした啓発本の翻訳担当者が、どういう意図であのような日本語の紡ぎ方を選んだのかは知らないが、もっと工夫の余地があったはずだ(それくらい違和感の残る文章だった)。同時に、日本語として不自然な表現の残ったままの"不完全な"翻訳書が、まだまだ世の中に流通しているのだと思うと、身の毛がよだつような思いさえした。

 

 

 

そもそも「翻訳」という行為自体に限界はあるのかなと思う。共通のバックグラウンドがあって、相互に関わり合いのある2言語ならともかく、全く交わりのない異なる文化背景で独自に形作られてきた2言語を行ったり来たりするわけだから、そりゃ完璧なイコールで結ばれた翻訳なんてそう簡単には実現し得ないだろう。

 

 

 

翻訳したときに感じる前述のような「齟齬」は、例えば英文和訳の作業を例にとるなら、「英語を日本語の感覚で考えてしまう」ために生じるのかなと思う。そりゃそうだ。翻訳者が日本に長く在住していれば、無意識のうちに日本語の感覚に照らし合わせながら外国語を翻訳していくのが普通だ。

 

 

私は"もうひとつ上のレベルの翻訳"を実行するためには、「英語を英語の感覚で考えて日本語に直す」スキルが必要だと感じる。

というのは、高校1年のときに私が至った考えだ。

 

 

 

それから私は、「英語を英語の感覚で考える」ことができるようになるために何をすべきかを必死に考えた。そして、とりあえず、英語の教科書を「疑ってみる」ことから始めた。中学・高校の英語の教科書の編集について、どれほどネイティブの人たちが関わっているのかは不明だが。。

 

 

「教科書のココの表現について、どう思いますか?」「教科書にはこう書いてありますが、同じような状況のとき、先生だったらどのような単語を使いますか?」などと授業終わりALT(Assistant Language Teacherの略で、外国語を母国語とする外国語指導助手。たいていどの学校にも1〜2人いる)の先生に質問に行った。

 

 

 

最初は質問とそれに対する返答だけであったが、そのうちALTの先生との会話は、授業の内容以外のことまで及ぶようになった。

そのなかで、日本の英語教育の"落とし穴"(?) に私は気づくことができた。それは、日本の感覚と、英語圏の人との感覚の違いが原因で生じるものであった。

 

 

例えば、英語で「どうぞお座りください。」と丁寧めに相手に伝えるとき、あなたならどんな英語を使うだろうか?(ここまで和訳についての話をしていたのに、急に英訳の話題にすり替わったことに関してはスルーしてほしい。)

 

 

「座る=sit down」で、英語には日本語ほど「敬語」という概念はないから、まぁ丁寧めに「please」をつけて、

 

 

Please sit down.  と言ってしまう日本人が多いだろう。

しかし、いくら魔法の言葉「please」を使ったとしても、この表現は、ネイティブには「座ったまま立ち上がらないでください。」というニュアンスに聞こえるという。

 

 

代わりにネイティブでは、Please have a seat. や Can you take a seat, please?などが使われるらしい。

 

Please be seated. という表現もあるが、これは式典のときに司会が言う「ご着席下さい」や、先生が授業で生徒たちに向けて「着席して下さい」と言うときに使うのと近いニュアンスらしい。

 

 

日本語では「着席」という一つの言葉で表現できても、英語では微妙にニュアンスの違う複数の表現がそれにヒットすることになる。

 

 

 

 

他の例としては、

 

話し相手に軽い感じで「趣味は何?」と聞くときに、日本の英語教育では「What's your hobby?」を妙に推しているが、ネイティブは、「hobby」という単語自体あまり使わないという。

 

日本人の頭の中ではおそらく「hobby=趣味」という等式が出来上がっていると思われるが、ネイティブの「hobby」のイメージは、「誰もやっていないような凝った趣味」を指す言葉であるらしい。

編み物とかキャンドル作りとかフラワーアレンジメントといった、場合によってはレッスンを受けることでスキルを習得したうえでの「趣味」が「hobby」のイメージに該当するらしい。

 

 

軽い感じで「(ちょっとした暇な時間にするような)趣味」を尋ねるときは、

What do you like to do in yuor free time?

How do you spend your free time?

 

などが好まれるという。

 

 

これも日本語では「趣味は?」という単一の表現で片付いてしまっても、英語では使い分けが必要となることの例である。

 

 

 

 

このように、翻訳の際には、例えば英語→日本語、日本語→英語のいずれの方向であっても、一本の道で結ぶ(イコールで考える)のではなく、他の可能性(分かれ道はないか?これが本当に適切な表現か)を考えることがキーであると考える。

 

 

 

 

ここまで、偉そうにツラツラと述べてきたが、日常会話レベルの英語をろくに2年ほど使っていなかった私には、このような翻訳の感覚はもうほとんど皆無だし、高校の頃に完璧な翻訳家になったわけでもない。

 

 

でも、その訳が本当に適切かを疑う癖はいまだにある。

 

 

 

 

 

あなたも、まず教科書や、自分の知っている英語を"疑う"ことから、英語力を見つめ直すのはどうだろうか?