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#1「ワタボコリ」の歌詞から広がる世界(6400字)

 

 

 

 

 

 

 

 

こんにちは、こんばんは。

 

 

 

今回は「乃木坂46」と「哲学」を結びつける話題について

 

 

 

書いてみたいと思います。

 

 

 

最初に言っておきたいのですが、今から連ねる文章は

 

 

 

一から僕が考えたものではなく、参考にした文章が存在します。

 

 

 

しかし、以前はネットで閲覧できたその文章が

 

 

 

今はどこを探しても見つからないんです。

 

 

 

でも、あの文章はぜひ一人でも多くの人に見て欲しい。

 

 

 

あんなに感銘を受けた文章は、他にないんじゃないかってくらい

 

 

 

初読の印象が強かったのを覚えています。

 

 

 

かといって、ソースの詳細も分からない状態なので、

 

 

 

ここに下手に原型をまねた文章を書いて、

 

 

剽窃だなんだと騒がれても困るので、

 

 

 

僕なりの言葉で記したいと思います。

 

 

 

哲学が苦手な人には、頭が少し痛くなるような文章かもしれませんが

 

 

 

「こんな風に考える物好きもいるんだなぁ」くらいの目線でかまいません。

 

 

 

読んでくださる方は、最後までお付きあいください。

 

 

________________________

 

 

“ワタボコリ” ~実存が本質に先立つ~

 

はじめに(抄録)

※このセクションは単なる前説なので、すっ飛ばしてもらって大丈夫です。

 

 

「実存」とは、「存在するという事実」のことで、

 

平たく言えば、「生きていること」。

 

「本質」とは、「本来の意味や役割」のことで、

 

もっと言えば、「存在意義」。

 

 

世の中のたいていのものは、「本質が実存に先立つ」。例えば、

 

ハサミはモノを切るという役割が先に与えられて、

 

それを具現化しようとして製造される。つまり、

 

本質を纏って実存し得るのだ。

 

人間の意図によって植えられ、枯らされ、

 

あるいは生殖を強いられ、殺されるような動植物も

 

今や存在しているのが現状であり、

 

そのような生き物たちにおいても、

 

本質が実存に先立つ、として何ら不思議なことはないだろう。

 

 

しかしながら、一般に本質が実存に先立つことのないものがある。

 

いったい何だろうか?

 

それは、ハサミを造り、

一方で植物を枯らし、動物を殺す、「人間」自身であると思う。

 

人間はあらかじめ何かしら意味をもって生まれてきたのだろうか?

 

 

「人間の存在意義、すなわち本質というものは、圧倒的かつ超越的存在にして

 

全知全能の神のみが知悉し、それを与え.....」といった具合に

 

人間の存在意義を神のもとに委ねるのが、西洋キリスト教の教えであり、

 

この考えは、19世紀のドイツの哲学者・ニーチェによって全面的に否定された。

 

このとき、それまで蔓延っていた因習 ― 西洋キリスト教が最も嫌ったのは、“虚無”である。― によって包み隠されてきた、存在の無意味性という圧倒的な虚無感が露呈することになる。

 

 

そこで、本質に先立っているところの、

 

生きている実存の意味が問われたのである。そして、ひとは気づく。

 

「本来人間が生きることに意味などないのではないか?」

 

では、なぜ生き続ける?

 

泳ぎ方や浮き方など一切習わずに「そこで生き続けろ」と大海原に

 

投げ込まれたかのような理不尽に抗ってまで。

 

「実存が本質に先立つ。」 今、考えるときだ。

 

_________________________

 

ワタボコリ

作詞:秋元康  作曲:ハサミマン

 

ああ 僕はここで 何をやってる? 一人つぶやく

ああ 僕はここで なんで生きてる? 誰か教えて

 

どうしてこの世に 生まれたんだろう?

「産んでください」頼んだわけじゃないよ

 

ワタボコリ ふわふわ 舞い上がって

ワタボコリ 風に吹かれて サヨナラ

 

ああ 僕はいつか 何ができるか? 気づくのだろうか?

 

仕方がないから 歩いてきたけど

僕の人生なんて ちっぽけなんだ

 

ワタボコリ ゴミにもなってないよ

ワタボコリ どっちつかずで漂う

ワタボコリ こんなに軽い生き方

ワタボコリ 誰も相手にしてくれない

 

いつも見えないのに 時々 見えるんだ

光が差し込むと 確かにそこにいる

ゴミクズ ワタボコリ

どっちがマシなんだろう?

 

ワタボコリ ふわふわ 舞い上がって

ワタボコリ 風に吹かれてサヨナラ

ワタボコリ どこかの大事な人に

ワタボコリ 僕の命をあげる

 

_________________________

 

なんのために生きているのか?

 

この深遠なる問いをテーマにしているかのように思えた、

 

乃木坂46の8枚目シングル「命は美しい」は、

 

実は自己言及ソングなのではないかという疑問が残った。

(歌詞の回りくどさが、そう思わせただけかも)

 

「命は美しい」以外で、乃木坂の楽曲の歌詞に頻出するフレーズ

 

「なんのために生きているのか」を、

 

おそらく最も真正面から扱っていると思われる曲がある。

 

3枚目アルバム「生まれてから初めて見た夢」収録曲「ワタボコリ」だ。

 

歌唱メンバーは、堀未央奈寺田蘭世北野日奈子

 

2期生3名による楽曲だ。

 

 

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「ワタボコリ」歌唱メンバー

 

 

歌詞は「僕」のつぶやきから始まる。

 

ああ 僕はここで 何をやってる? 一人つぶやく

ああ 僕はここで なんで生きてる? 誰か教えて

 

「なんで生きてる?」という命の意味への問いかけである。

 

僕は、どこにいて、何をしているかは描かれていない。

 

 

どうして この世に 生まれたんだろう?

「産んでください」 頼んだわけじゃないよ

 

産んでくださいと頼んだわけではないが、生まれてきた。

 

 

 

この問題を目にしたら、フランスのサルトルが提唱した

 

「実存は本質に先立つ」という考えを

 

引き合いに出さずにはいられない。

 

 

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ジャン=ポール・サルトル (1905~1980)

 

実存とは、今現在、私たちが生きていることを意味する。

 

本質とは、生まれてきた意味である。

 

私たちは、生まれる前に自分で

 

「よし、この地球上にこの両親の子供として生まれて生きていこう」

 

と決めて生まれてきたわけではない。

 

気がついたら、ある時代のある家庭のもとに生まれて育って、

 

そして成長していく。親に頼んだわけでも、自分で決めたわけでもない。

 

だから、あらかじめ生まれてきた意味や価値、目的が決まっていて、

 

生まれてきたのではない。

 

 

一方、人間以外のモノは、本質が先にある。

 

ペーパーナイフは、その本質が職人のアイデアとしてあらかじめあり、

 

そのアイデア(本質)がペーパーナイフの実存に先立つ。

 

このように、モノは本質が先にあり、

 

そのあとに現実存在としての実存がある。

 

 

 

この世に存在するおおよそのモノは、本質が先であり、

 

それは概念として人々の頭の中にあり、イメージとして想定されている。

 

ところが、人間だけは別である。

 

人間の存在の意味は、超越的な神の頭の中にのみあって、

 

それを神がつくった、というのは西洋キリスト教の教えであり、

 

ニーチェによって破壊された。

 

人間は全知全能の神によってつくられたものではない。

 

神という絶対的価値が崩壊したところに、

 

それまで覆い隠されていた圧倒的な虚無感が全面的にむき出しになる。

 

そこで、本質に先立っているところの、生きているという実存の意味が

 

問われるのである。

 

そんな人間存在を、僕はこの歌の主テーマ「ワタボコリ」と独白する。

 

 

ワタボコリ ふわふわ舞い上がって

ワタボコリ 風に吹かれてサヨナラ

 

 

綿埃とは、ほこりが固まって綿のようになったもので、

 

 

掃除されるべきゴミである。

 

 

軽い存在であるがゆえに、風でふわふわと舞い上がることもあるだろう。

 

僕であるところの「ワタボコリ」は「風に吹かれてサヨナラ」となる。

 

どうして生きているのか分からない。産んでくれといったわけでもないし、

 

自分で望んで生まれてきたわけでもない。

 

だから、この世から消え去ってもよい。

 

生きている意味がないなら「サヨナラ」、すなわち「死」を選択してもいい。

 

 

ああ 僕はいつか 何ができるか? 気づくのだろうか?

仕方がないから歩いてきたけど 僕の人生なんてちっぽけなんだ

 

僕はいまのところ何の役にも立っていない。

 

これからも何をして生きていけばいいのか分からない。

 

自分の存在の意味が、はっきりと知らされるときが

 

果たしてやってくるのだろうか?

 

生まれてきて、生きよといわれて、周りの人たちも

 

一生懸命生きているから、仕方なく生きてきた。

 

だけど、考えてみれば、僕の人生は、ちっぽけである。

 

ワタボコリ ゴミにもなっていないよ

ワタボコリ どっちつかずで漂う

ワタボコリ こんなに軽い生き方

ワタボコリ 誰も相手にしてくれない

 

ワタボコリである僕は、どっちつかずで漂っており、ゴミにもなっていない。

 

これはどういう意味だろうか?

 

綿埃は、見つけられれば捨てられる存在であるが、

 

捨てられる存在であるとはっきりしているわけでもないし、

 

だからといって必要なものでもない。だからふわふわと風に漂っている。

 

生きている意味はなく、価値がないなら、苦しいだけの人生、

 

さっさと死んでしまったほうがよい。だけども、そう断言もできないし、

 

いまのところそんなに思い詰めているわけでもない。

 

だから「ゴミにもなっていない」のだろう。

 

だが、僕を相手にしてくれる人は、誰もいない。

 

誰からも認められてはいないし、必要とされているわけでもない。

 

ここで初めて、相手にしてくれる誰か、の存在がでてくる。

 

「なんで生きている?」という問いかけの発端は、

 

誰からも必要とされていない存在であるとの自覚から、だったのかもしれない。

 

 

いつも見えないのに 時々 見えるんだ 光が差し込むと 確かにそこにいる

ゴミクズ ワタボコリ どっちがマシなんだろう?

 

ゴミクズは見つけやすい存在であるが、

 

それに比べてワタボコリは、いつもは見えない。

 

時々、光が差し込むと見える。

 

「光」とは、自分を相手にしてくれる存在である誰か、のことなのだろうか?

 

完全に、誰からも相手にされない無意味で捨てられるべき存在であるわけではない。

 

時々は、存在意義を認めてくれるような誰かがいて、なんとなくそうして、

 

ちっぽけながらも、仕方なく生きてきた、と解釈できなくもない。

 

しかし、これはあくまで僕の独白であり、ワタボコリを見ているのは、

 

「誰か」ではなく、「僕」である。とするならば、

 

「確かにそこにいる」と存在していることの自己を、自己が確認している、

 

という意味であろう。あるいは、両方の意味が「光」にあるのかもしれない。

 

 

 

ワタボコリ ふわふわ 舞い上がって

ワタボコリ 風に吹かれて サヨナラ

ワタボコリ どこかの大事な人に

ワタボコリ 僕の命をあげる

 

誰からも相手にされない、生きている意味も分からない存在である僕。

 

先に「サヨナラ」は、「死を選ぶこと」ではないかと書いたが、

 

最後に「どこかの大事な人に 僕の命をあげる」という表現が出てくる。

 

どうせ死ぬのなら、誰かの役に立つような命の使い方をして死のう、

 

ということであろうか?

 

ならば、結論としては、ゴミクズともワタボコリともどっちつかずであった僕は、

 

ワタボコリである中途半端な存在と決別して、ゴミクズになることを決意した

 

ということなのだろうか?

 

それとも、ゴミクズとは別な、自分なりのワタボコリとしての役目を

 

最後に果たしたいという決意表明をしたのだろうか。

 

 

いずれにせよ、物語の中の僕の決意がどうであるかは、

 

さしあたって「なんのために生きるのか」とテーマからは、

 

決定的に重要な問題ではない。なんのために生きるのか、

 

存在理由が分からなければ人は死を選んでも仕方がないのである。

 

 

ここにおいて、なんのために生きているのか分からないが、命は美しい、

 

と肯定して前向きに生きる生き方との差異が決定的に浮かび上がってくる。

 

ゆえに、「命は美しい」より「ワタボコリ」のほうが、

 

本質的に「なぜ生きるのか」という問いを、真正面から問うているのである。

 

 

人生が無意味と知れば、人は自殺をする。実存は本質に先立っていることを

 

自覚した芥川龍之介は、結局、人生の意味を見つけることができず、自殺を選んだ。

 

 

芥川の随筆・箴言集「侏儒の言葉」人生 ~石黒定一君に~ には次のようにある。

 

「もし游泳を学ばないものに泳げと命ずるものがあれば、何人も無理だと思うであろう。

 

もし又ランニングを学ばないものに駈けろと命ずるものがあれば、やはり理不尽だと思わざるを得まい。

 

しかし我我は生まれたときから、こう云う莫迦げた命令を負わされているのも同じことである。

 

我我は母の胎内にいた時、人生に処する道を学んだであろうか?

 

しかも胎内を離れるやいなや、兎に角大きい競技場に似た人生の中に踏み入るのである。

 

勿論 游泳を学ばないものは満足に泳げる理屈はない。

 

同様にランニングを学ばないものは大抵人後に落ちそうである。

 

すると我我も創痍を負わずに人生の競技場を出られるはずがない。

 

成程世人は云うかも知れない。

 

『前人の跡を見るが好い。あそこに君たちの手本がある。』と。

 

しかし百の游泳者や千のランナアを眺めたにしろ、

 

忽ち游泳を覚えたり、ランニングに通じたりするものではない。

 

のみならずその游泳者は悉く水を飲んでおり、

 

その又ランナアは一人残らず競技場の土にまみれている。

 

見給え、世界の名選手さえ大抵は得意の微笑のかげに面を隠しているではないか?

 

人生は狂人の主催に成ったりオリムピック大会に似たものである。

 

我我は人生と闘いながら、人生と闘いながら、人生と闘うことを学ばねばならぬ。

 

こう云うゲエムの莫迦莫迦しさに憤慨を禁じ得ないものは、

 

さっさと埒外に歩み去るが好い。

 

自殺も亦確かに一便法である。

 

しかし、人生の競技場に踏み止まりたいと思うものは、

 

創痍を恐れずに闘わなければならぬ。」

 

 

 

 

生きるとは格闘であり、競争である。何のために生きているのか分からないまま、

 

 

いきなり人生という競技場に投げ出され、走れ、泳げといわれる。

 

周りのひとは皆、どこに向かって泳ぎ走っているのか分からないが

 

とにかく一生懸命、泳ぎ走っている。じっとしていれば、溺れ死ぬだけだ。

 

だから、とりあえずは周囲の人から、泳ぎ方を学ぶ。

 

そうして生きてゆくのであるが、生きるのは苦しく辛い。

 

結局、ゴールのない円形の競技場をぐるぐるとまわっているというように、

 

いつまでたっても、なんのために走り泳ぎ、生きているのか分からない。

 

まるで、、頭のおかしい狂人が主催している、オリンピックである。

 

オリンピックの競技にはゴールがあるが、人生という競技にはゴールがない。

 

ひたすら走り続けてやがて倒れて死ぬだけだ。ならば苦しみに耐えて走り続けるより、

 

さっさと死んだほうがマシである。そうして、芥川は、この世を去った。

 

 

話を「実存と本質」に戻す。人間においては、実存が本質に先立つ。

 

人間はあらかじめ何かしら意味を纏って生まれてくるわけではない。

 

生き方も分からない状態で、この世に投げ込まれたという「理不尽」に

 

抗うように今日も私たちは生きる.... (続く)

 

__________________________

 

 

 

いかがでしたでしょうか。

 

 

 

 

この文章を読んだうえで、今一度「ワタボコリ」を聴いてみてください。

 

 

 

 

違う世界が見えてくると思います。

 

 

 

 

このように、哲学的(自己の存在論的)アプローチからも

 

 

 

 

考察が可能な、詞を書く秋元康氏のすばらしさを改めて感じます。

 

 

 

 

僕が書きたかったのは、「歌詞を咀嚼し、様々な観点から考察する」ことも

 

 

 

乃木坂46の楽しみ方のひとつとしてあるということです。

 

 

 

 

ここまで6400字か。やばいな笑。

 

 

 

君の名は希望」の歌詞についても、林修先生の言葉を借りつつ

 

 

書いてみたいと思います。

 

 

 

 

 

 

とりあえず、今日はここまでです。

 

 

 

読んでくださって、ありがとうございました。

 

 

 

 

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左から寺田蘭世堀未央奈北野日奈子

 

 

 

 

eppy(2019/8/3  3:19)